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天穹の果てに/09

<運命の戦い>

2月、丞相呂不韋の号令のもと、二十万を超える大軍勢が隣国「韓」を目指して出陣した。軍は三つに分れそれぞれが別の城を攻略するようで、三軍が足並みをそろえて侵攻すれば韓の地を削ぎ取る事ができるだろう。二十万と言えば、昨年の魏戦よりも規模が大きい。しかし、今回の戦、昨年の魏戦を戦った歩兵の地域には徴兵がかかっていない。それは民への配慮によるものだ。
それからすぐに…趙秦国の北東の地、馬央に攻め入ってきた。少なくとも、十万以上はいるそうだ。現在、蒙驁将軍が二十万の大軍を率いて韓を攻めている真っ最中なので、馬央に援軍を向かわせることができない…むしろ、援軍はおろか、今の中央地域には自らを守る戦力すらいない。馬央、馬陽の前線地域が抜かれると、趙軍は一気に国内になだれ込んでくる。韓の奥深くまで侵攻した蒙驁軍を呼び戻す時間も無く、下された命令は今すぐ中央一帯に緊急徴兵令を下し、十万の軍を立ち上げる事。そして、その兵たちを前線の援軍に向かわせろ、と言う事だった。何故かと言うと、趙軍の目的は城取だけではない…蹂躙も含まれている。急がなければ、前線地域一帯から秦人が一人もいなくなってしまうだろう。
しかし、間に合わず、趙軍の別動隊が行く先々には惨劇が広がっていた。趙兵は殺戮の限りを尽くし、村々を壊滅させたのだった。蹂躙部隊の指揮を買って出たのは、もう一人の副将…万極将軍。そして、大将は龐煖将軍…。馬央の陥落と周辺の惨状が咸陽に伝わったのは、翌日のこと。その日の午後、緊急徴兵を伝える早馬が咸陽から放たれ、あの戦いで功績を上げた信の仲間たちも今回の戦に加わる事となった。

「なんか空気重たいね…」
「…お、おゥ」

王騎将軍と共に連れてこられた先には、父昌文君含む文官たちが待っていた。奥では大王様がいて、信の姿を見て少し驚いた表情を浮かべていたが、それも一瞬の事だ。
今回、王騎将軍がこの戦の大将となる事が決まった。二人きりで話すことがあると言われ、部屋を追い出された名前は同じく部屋を追い出された信の隣でぼそっと呟く。

「よくこんな時にあくびなんかできるよな」
「ふわぁ……そうかな、緊張しすぎると、むしろ緊張がゆるんじゃうんだよね……」

趙軍との戦い、相手は龐煖…と聞きなれない武将の名ではあったが、名前は嫌な予感を感じていた。

「…勘、なんだけどさ、流石に今回はやばそうだね」
「あくびしてる癖に」
「あくびは関係ないよ、だってほら、ワタシ、ついこの間まで盗賊団討伐からの後処理に追われてさ…50人も降りてきたんだから、大変だったんだよ?」
「よくわからねぇけど、おつかれサン」

信と話をしている間、さっきからずーっと視線を感じている訳なのだが…なんとなく、その視線の元が呂氏陣営のような気がして、名前はそちらの方向を見ないようにして信と話し続けた。

「ようやく帰れる…眠たい…あれ、父上たちだ…」

屋敷に戻ろうと父に声をかけようとしたとき、王騎将軍がいる事に気が付き声をかけるのをやめ、中に戻っていった。それから、王騎将軍が正式に総大将の任を受け、翌朝、王騎将軍率いる秦軍は咸陽を発った。
馬央まであと9日という時に、趙軍が馬央にいる女子供残らず殺したという話題が耳に入ってきた。もしかしたらこっちの士気を下げるための策某かもしれなかったが、あの趙軍の事だ…。

「何シケた顔してるのよ」
「来黄はあんまり、って顔だね」

彼…もとい彼女は、ついこの間名前に降ってきた元盗賊長の1人。一見女性に見えるが、立派は男性である。

「うーん…いやーな予感がしてさ…」
「またアンタの勘ってやつ?」
「うーん…」

アンタはウチらの隊のボスなんだから、しっかりしなさいよ。そう言われ、弱気な顔を見せていたことに気が付き、頬をぱちんと叩く。

「うん、大丈夫!ありがとう来黄!」
「別に礼を言われる筋合いはないわ…でもそうね、礼ならいい男紹介してよ」
「―――あー、うん…」

男紹介しろって言われても…。

「隊長殿にそんな話したら可哀相だろぉ」

低く、通る声で口をはさんできたのはもう一人の元盗賊長、狼だ。一目見た時に、ああ、女たらしなんだろうな、と思った名前だが、全く持ってその通りだった。名前の住む屋敷より少し離れた場所に部下たちが住まう屋敷がいくつか点在しているが、そのうちの一つを彼らに与えたまでは良かった…が、問題はそれからだった。狼は女を毎晩連れ込んでいるらしく、屋敷に仕えている下働きの女人にまで手を出しているとか。ただ、女性受けがとてもよく、苦情は来ていない。戦いでの腕は確かなのでそこは隊長として目を瞑ってはいるが、これ以上酷くなったら流石に文句を言おうと思う。どうでもいい話だが、来黄は基本的に美少年には興味がなく、どちらかと言えばムキムキの男性が好みらしい。

それから数日後、趙の噂を聞きつけた他の隊から脱出者が現れおおよそ1000人程脱出者が出てしまった。しかし、王騎将軍の喝入れのお蔭で脱落者は止まったので良しとしよう。あれは本当にすごい喝だった、と名前は遥か前方を進む王騎将軍の隊を見つめる。

「…すごいなぁ、大将軍って」
「ほんといい男よねェ」
「…」

名前隊は勿論名前が隊長であり、副官は元盗賊長の狼、そして元々壁隊にいた瑛という男の二人。この隊に入って間もない狼ではあるが、人当たりがよく、すぐにこの隊となじんだことには驚かされたものだ。ちなみに、来黄が男であることを知った元壁隊の仲間たちが酷く落胆したのは言うまでもない。

「名前殿!壁千人将がお呼びですぞ!」
「あぁ、ありがとう瑛、じゃぁちょっと抜けるね」

その夜、他の百人将たちと共に壁の陣幕に呼び出されていた。

「遅いぞ!」
「ごめんごめん、ちょっと信の所に寄ってたんだ」
「…あぁ、信の所か…では名前もそろったことだし、軍議を始める―――」

馬央の戦いの軍議が始まった。まぁ、軍議と言えども壁の持つ千人部隊のみの、小さい会議のようなものだ。戦いの軍議、と言うよりは千人隊の会議であり、そこで各々がどのような動きをするのか…という内容を言い渡される訳なのだが、名前だけには特に何かを言い渡される事はなく。軍議が終わるとそのまま自分の陣幕へ戻っていった。
翌朝、ついに馬央に到着することができた。第四軍である壁隊の千人は左陣に組み込まれることとなった。壁のちょうど後ろで嫌な表情を浮かべる名前の頬を来黄が抓る。

「いだだっ」
「ほら、シャキッとしなよ」
「シャキっとしてるってば…」
「顔に出てるよ」
「あーうん…」

嫌な予感がする。昔から、勘だけは良かった。だから、これから起こるであろう戦を想像し、朝から気分の乗らない名前の様子を、来黄が察したという訳だ。

「まーたその勘かい?」
「うん…来黄に狼、瑛、ちょっとこっち来てもらえる?」

戦がもう間もなく始まるというのに、名前は副官二人と来黄を引き連れ隊の後ろへと移動すると、小声で三人に要件を手短に伝え、すぐに持ち場に戻る。
そして…運命の戦いが、幕を開けた。

まずは前線の蒙武軍が早速趙軍の重装騎兵隊に切り込みをいれる。切り込みが成功し、秦軍からは蒙武将軍の名が挙がり、湧き立つ。しかし、趙も黙って見ている訳ではない。趙の先鋒隊も秦軍の右軍めがけて攻め入ってきた。戦が始まり、すると秦軍の中でも中央が動き始める…王騎将軍が各部隊の士気を上げる為隊を回って走っていた。そして、壁隊の所属する第四軍へ訪れた王騎将軍は、左軍が主攻であることを伝える。

「王騎将軍、先ほどの言葉…ですが、左軍が主攻とはどういう意味でしょうか」

この左軍から戦局に関わる動きは望めそうにない、地形的にも敵本陣も目指せず中央を狙うにも出遅れてしまっている。その旨を伝えたが、王騎将軍にココココと笑われ壁は少し恥ずかしそうな表情を見せる。

「相変わらず生真面目かつせっかちですねェ、壁千人将は、まさに昌文君の副官という感じです」
「…」
「ねェ、そうでしょう?壁千人将の副官、名前」
「―――え?あ、ハイ」

別の考え事をしていたのがバレてしまったのか、突然話を振られ動揺してしまった。

「大将の話を聞きもせず、何を考えていたんですかァ?」
「えーっと…」

そうだったのか、と思わず壁に睨まれてしまう。苦笑しつつも、上官からの質問に答えねば…と名前は恐る恐る口を開く。

「駒を減らそうと…ですが、主要な駒を減らせる程壁隊に力はないので…小さい駒から、潰そうかな、と…」
「ココココ…あなた、とぼけた顔をしてますけど、案外陰湿なんですねェ」
「は、ははは…」

褒められたのか、貶されたのかは分からないが、王騎将軍がなんとなく名前に何かを期待していることは周りにいる壁隊の隊員たちも察した。

「昌文君の子の言う通り、いきなり本陣など狙っても届きませんよォ、まずは駒を減らすこと…」
「しかと承りました」

すると、王騎軍の干央軍長が声を上げる。

「干央、いきなり苛烈な戦いとなりますがよろしく頼みますよォ」
「お任せを、死闘は私が最も得意とするところです」

王騎将軍が去り、隊列の確認が済むと壁から呼ばれ、列を離れた。

「…壁、どうしたの?」
「―――わかってはいると思うが、死ぬような真似だけは絶対にするなよ、何しろ、お前は…」
「わかってるよ、昌文君の子だからね、ここで死ぬわけにはいかない」

これから、もっと出世をして、父を助けなくてはならないのだから。

「壁…その、左軍、相当な死者が出ると思う…その、壁も、死んだら駄目だよ」

父上にとっても、大切な人なんだから。

「あぁ…この戦、勝ち残るぞ」
「うん!」

左軍の、苛烈な戦いが幕を切って落とされた。

Published in天穹の果てに