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天穹の果てに/06

<戦の終わりに>

一体なんだったんだあれは!?
未だ心が乱れた状態の名前だが、途中信と合流し、壁を追うことになった。なんでも、信はあの王騎将軍から馬を借りたそうだ。王騎軍の馬なんて、強靭そうだ…。美しくしなやかに動く筋肉を眺め、そう感じた。

「で、どうしたんだよそんなに暴れて」
「暴れているように見える?」
「…お、おう…」

敵兵を棍でなぎ倒しながら馬を走らせているだけだが、言われればちょっと普段より荒い動きのような気がしない事もない。…これは、すべてあの眼力男のせいだ…。こんなこと、信に話せる訳もなく、あの記憶を消し去るが如く敵を次々となぎ倒しているとようやく壁の後姿を確認できる距離まで詰める事ができた。

「尚鹿殿!頭下げて!」
「―――この声、名前殿か!」

壁に襲い掛かろうとした敵は信が倒しているので、ワタシはこっちを。尚鹿めがけて襲い掛かる男を勢いよく投げた名前の槍が貫く。

「助かったぞ!」
「お前たち何処へ行っていたんだ!?」
「まぁ色々とあって…それよりも壁!挟み込むつもりだね?」
「あぁその通りだ、着いて来い、信、名前、麃公軍をはさみこんでいる左軍に喰らいつくぞ!」
「オォ壁千人将!」
「承知したァ!」

戦場において、挟み込まれるという状況は最も最悪な事だ。このままでは麃公軍は敵兵に飲み込まれてしまう…それを防ぐために、壁たちが動いているという訳だ。

「行くぞ!!」

任せて、と叫ぶと名前は壁の隣に並び、棍をくるくると回転させながら、敵兵の武器を弾き飛ばしていく。そして、前線の敵兵の胸元を槍で深く突き刺し、ふたたび棍を振う。入口をあければ、突入は簡単にできる。ただし、入口をあけたところでここに居る敵兵の数に抗う事は至難。

「なんでだよ壁!なんで攻撃しねぇんだせっかく援護に来たのに!」

この数で戦っても、壁隊並びに尚鹿隊は敗れる事間違いなし。それよりもこのまま並走して心理効果を与える方が、援護になる。

「挟み込み――――だよ、信、両側から敵に迫られると心理的重圧を受けて、敵兵の士気がさがる…つまり、麃公将軍は今それで苦戦してるんだよ」
「っぐ…そ、その通りだ」

おそらく、かっこよくこれを説明したかったであろう壁の活躍の場を名前が奪ってしまった。

「今、麃公軍とワタシたちで魏の軍を挟み込んでいる形にもなってる、だから魏軍に対して少数だけど多少は挟み込みの重圧をかけられてる、って訳」
「へ~詳しいんだなァお前」
「全部父上が教えてくれたことだけどね」
「へ~」
「……それに、麃公将軍は……父上が一目置いている方…父上の目利きは確かだから、安心していいよ」

壁たちが予想していた通り、麃公軍は左軍をせん滅するため、左軍へ攻撃を開始した。と、同時に突然信が勢いよく駆け出す。

「わっ、信ちょっと!」
「何考えているんだ信は」

流石に、信一人で走らせるのは危険だ…名前は壁に視線を向けると、静かに頷く壁を確認し、名前も駆け出した。走っていると、敵将校と思われる男たち2人と信が戦っている様子が目に入る。3人の間に割って入り、棍をくるくると回転させつつ片方の男めがけて槍を突き刺す。急所を外してしまったが、脇に傷を負わせることはできた。

「ガキ二人…だとッ、死ね!」
「死ぬのはオジサン、あなたの方だよ!」

敵兵の剣が頬をかすめ、微かに血がにじみ出る。男が悔しそうに顔を歪めたその直後、カッと瞳が見開かれる。もう一人の将校を信が切り倒したのが目に入ったからだ。いい隙ができた、と名前は棍を勢いよく敵将校の頭に向けて振りかざし、頭を守っている兜を薙ぎ払い、そして、頭を突く。脳を貫かれた敵将校は瞳に光を失い、虚ろな表情を浮かべて馬上から落下した。
2人が敵将校を倒してすぐ、麃公軍が隣を横切っていった。通り過ぎた際、あまりの熱にこちらも身を引いた程だ。

「…すげぇ、あれが麃公将軍…」
「すごいよね…あ、信、お手柄だね」
「お前もやるじゃねぇか」

拳と拳がぶつかり、笑い合う二人。それを遠目で眺めている壁は、信と、そして名前の強さに関心してしまったが、反面、自分より年下の少年たちに追い抜かされてしまうのではないだろうか、と不安を抱いたのはここだけの話。

「……疲れた…」
「よう、お疲れさん、名前殿」
「尚鹿殿……ようやく戦、終わりましたねー…」
「どうだったよ」
「へ?」

魏の総大将が麃公将軍によって討ち取られ、秦は勝利を収めることができた。これから壁たちと共に咸陽に戻る訳だが、尚鹿に呼び止められ、名前は馬の脚を止める。

「副官として戦に参加するのは初めてだっただろ?どうだった?」
「…大変だねぇ」
「まぁ、俺としてはよく動けていたとは思うがな、お蔭で壁は大けがしなかったし」
「…一応頑張ったつもりだからね」

それにしても、すごく疲れた。馬の上でぐったりと身体を伸ばしながら、小さくため息を漏らす。無事自宅に戻った名前は、夜、屋敷の中で父から褒美としてもらった桃を頬張りながらだらだらと過ごしていた。

「はぁ~…至福のひとときだなぁ」

桃は、士族だろうと滅多に口にすることができない高級な果物だ。体中の悪いものを取り除く力があると言われ、魔よけの力があるそうだ。

「ほんっとに、父上は過保護すぎです!」
「姉上……今何時だと…」

書簡を読んでいると、突然姉が騒音を立てながら部屋にやってきた。姉の名は蘭、父の過保護のせいで未だに嫁に行けず…。母もさすがに痺れを切らしてきた頃なので、もう間もなく嫁に行ってもいいのではないだろうか、とは思うのだが…。

「ああ!どうして許して下さらないのかしら!いいわねアンタは!好き勝手に家出られて!!」
「…あはは…姉上今日は荒れてますね…」
「それもそうよ!!だって、賁様の……賁様との…縁談のチャンスだったのに!!」

昼間、この屋敷に親戚勢が集まって縁談の話になったらしいが、長女蘭の嫁ぎ先の件で話題になった際に、まだその時ではない、と家長に止められたためだ。この時代、女子は政治の道具として使われる…その嫁ぎ先がとても重要なのだ。大王様の右腕である昌文君の娘となれば、それ相応の家に嫁がせることは決定事項。ただし、タイミングもとても重要で…それ故に未だに姉は嫁ぎ先が決まっていない。姉といっても1歳年上なだけなので、ほぼ年齢は名前と変わらない。しかしこの時代、15歳で士族の娘で嫁ぎ先が決まっていないのは、珍しいことだった。これは名前にも言えたことだが、名前の場合は未だに息子扱いの為、いつ嫁がされるかは父のみぞ知る。

「王家に嫁ぐの…ずーっと前から言ってたね姉上」
「当たり前じゃない!私の…憧れの殿方はあの方しかいらっしゃらないわ!」

姉の言う賁様とは、王翦将軍の息子の名だ。会った事はないが、姉は何度か会ったことがあるらしいが、今は嫁入り前の状態なので、異性と合わせるのに父は慎重になっていた。

「夢見る乙女だね…」
「もー、アンタ、本当に男として生きていくつもりなの?」
「それ父上に言ってよ……」
「……言える訳、無いじゃない、だってこの家には男児がもういないのよ?」

父もそれなりの歳なので、いくら妾がいようともこればかりは…。子供は授かりものと言うし、そう簡単にできるものじゃない。特に男児となれば、身体も弱く赤子のうちに亡くなる子も少なくはない。

「父上が決める事だし、ワタシには何とも…」
「あ~あ、ほんと、アンタが男だったら本当によかったのに」
「すいませんね、女で生まれてきて」

この話はもう何百回と聞かされているので、今更心が傷つく、なんてこともなく名前は手をひらひらと振りながら、面倒くさそうな表情を浮かべ姉の退室を促す。すると、姉は文句を言いながらも渋々と部屋を後にした。

「……ま、姉上よりかは、自由なのは事実だし…」

男に生まれていれば、どれだけ楽だったか。そんなの、言われなくとも自分が一番感じているのに、わざわざいう事もないのに。食べかけの桃を一口頬張る。

「……嫁ぎ先、か…」

ふと、戦場で出会ったあの男の事を思い出す。

「あれ…本気だったらどうしよう…父上に話、してたらどうしよ……」

『よし、嫁に来い』その言葉を聞き、かなり衝撃を受けた。いや、生まれて初めて異性にそういう話をされたので、正直よく分からなかった。あの男の真意は一体何なのか……。こういうのは、お互いの気持ちが大切なのだと母が言っていたような気もする。誰かに恋愛感情を抱いた事が無かったので、よくわからない相手の気持ちが恐ろしかった。

「怖いなぁ…ワタシ、ずっとこのままでもいいかもって、思ってるんだけどなぁ」

いっそのこと、男として過ごせた方が気持ちが楽になる。それでも、身体は女として着実に成熟しつつある。いくら外見が少年らしく見えたところで、布を引き剥がしてしまえば―――そこにいるのは年頃の少女だ。

「―――なるべく、会いたくないなぁ」

しかし、戦場に出ていれば嫌でも会うのかもしれない。名前は窓から覗く月を見上げながら、ため息をこぼした。

Published in天穹の果てに