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天穹の果てに/08

<呂不韋という男>

渦中の人物が、現れた。名前は遠目からその光景を茫然と眺めていた。
事の顛末は、大王様暗殺を企てた呂氏自らが、大王様の元に現れ、自らが行ったと豪語したことから始まる。悔しいが、今、大王様に呂氏を牽制する力はない…そんなことをするはずが無かろう、と言うしかなかった。そう言わせた呂氏が憎かったが、事実は事実だ。大王様一派にそこまで力が無い事も…目だった将校もいないという事も。壁が、将軍になれば幾分は立場もよくなるのだろうが、まだ先の話だろう。その影響のせいか、突如名前は辞令を言い渡された…それは、壁副官という立場に加え、100人将という位を与えられたという事。いや、こうなる事はある程度予測していたことだ、昌文君の息子という立場である以上、それ相応の地位に立たなければならない事を。

「それにしても、好き勝手にこちら側をかき乱してくれるよねぇ、呂氏陣営って、あはは」

六将復活させろだなんて、蒙武将軍って人は過激だなぁ。そう笑っていると壁に小突かれた。

「名前、笑いごとじゃないぞ…まったく」
「壁、もっと心に余裕を持たないと、付け込まれちゃうよ」
「い、言われなくともわかっている!」

まだ呑気に笑っている名前だが、今回の辞令のせいでとある男に目を付けられることになろうとは、この時の名前は知る由も無かった。

「肆氏が陣営に加わったんだ、そりゃ頼りになるね」
「あぁ…だが、あの男、信用してもいいのだろうか」
「大王様が決めたんだから、間違いないと思うよ」

肆氏はかつて敵対していた政敵…今や、同じ陣営の仲間となった彼だが、壁は未だに彼をなかなか受け入れられずにいるようだ。

「あ、そうだ、父上に言われてたんだった…」
「殿の使いか?」
「うん……」

あの、王騎将軍の所にね…。盛大にため息を吐いた名前だったが、その理由を知らない壁はただ首を傾げるだけだった。
父から頼まれた使いは、この書簡を王騎将軍に届ける事だ。馬を走らせながら、憂鬱な表情を浮かべる。

「……あの男がいませんように…」

しかし、ここでも嫌な予感は的中してしまい―――。

「娘、ようやく決心したか」
「してませんしてませんしてませんッ」

ぎゅう、と羽交い絞めにされ暴れる名前。羽交い絞めにしてきた騰の腕はやはり男の、しかも武人の腕なので名前なんかが払いのけられるものではない。

「王騎将軍にこちらの書簡をお渡しくださいぃいいいッワタシは帰りますのでぇええッ」
「細すぎる、女子なのだからもうすこしふくよかになっても…」
「おい…そこで何してるんだよったく…」

そこに現れた目つきの悪い男は、王騎軍の録嗚未だ。

「お前は確か…昌文君の息子か?」
「いいや、娘だ」
「は?!」
「ちょっっ、それ言わないでもらえます!?」

父上に怒られるんですが!そう怒鳴ると、騰は悪げもなく話を続けた。

「娘であることを隠しているのだ」
「あぁ…成程な、確かに男にしか見えない」

女性的特徴は殆どないな、とサラっと残酷な事を言う録嗚未に内心コイツ…と怒りを抱きつつも、事実は事実なので何も言い返す事が出来なかった。

「父上には、政敵が多いので…それに男児が今はいないので、仕方がないんですよ」
「成程な……だが、何故そんな状態になっているんだ」
「録嗚未殿、お願いします、この人を引き剥がしてください」
「いや、無理だな、俺は忙しい」
「えぇッ」

という訳だ、と立ち去る録嗚未の背中を見送ると、訳の分からないことを言う騰に終始ダル絡みされ続けた。それは、王騎将軍がここにやってくるまで続いたわけだが…。

「えぇ!?信来てたんですか?」
「えぇ、今着替えている所ですよ、ココココ」
「えっ」

私に抱かれに来たみたいですよオ、と笑えない冗談をかましてくれた王騎将軍に引き攣りつつ、名前は案内された部屋で信を待つことにした。が、結局信は王騎将軍に修行を見てもらうこととなった為、信と会うとこは叶わず、待っている間、騰とのダル絡みにつき合わされただけだった。
疲労困憊した名前が屋敷に戻ってこれたのは日が暮れた頃。今日一日、本当に無駄な時間を過ごしたと思う。おやつに出された胡桃をぼりぼりと噛みながら、部屋の壁に向かって愚痴を零す。

それから数日後、信が王騎将軍にある地を平定させろ、という修行に勤しんでいた頃、名前は王騎軍の演習に参加をしていた。と言うより、参加させられていた。これは父の命令でもあるので、仕方のない事ではあったが…ことあるごとにダル絡みしてくる騰の扱いに、1カ月も過ぎた頃にはすっかり慣れてしまった。

「ンフゥ、あなたは、後方支援型ですねェ」
「やっぱりそうですよね」

危険な賭けはしない性格でしょ、と王騎将軍に言われ名前は小さく頷く。
演習も終われば、もう平服に着替えてあとは帰る支度だ…と普通ならばそうなるのだが、父の命により王騎の城で3ヵ月過ごす事となっている名前は、平服姿で王騎の前に腰を下ろしている。顔の周りを覆うような布は無く、そこには年相応の少年のような少女がいるだけ。

「もしかして、昌文君は若い頃の自分と同じような育て方をしたいのでしょうねェ」
「…父上の、若い頃?」
「えぇ、昌文君…貴方の父親は独立遊軍でしたから、色々と痒い所を突いてくれましたからねェ」

あの男も、どちらかと言えば先陣を切って戦うのではなく、後方支援型でしたから。と、王騎将軍は笑いながら続ける。

「…その気分屋な性格が、軍師学校に入れられなかった原因か、または…娘馬鹿なのか…」
「え、どういう意味ですか?」
「ココココ、まぁどっちにしろ、敵陣営の中に子供一人放り込むなんて危険な真似、あの男なら絶対にしないでしょうねェ」
「―――あぁ、そういう事ですか」

確かに、軍師学校に入ることも可能性としてはありえたが、その軍師学校が呂氏陣営の…昌平君管轄の為、躊躇したのだろう。それを証拠に、名前は昔から兵法の基礎は父や壁から教わっていた。ちなみに、風の噂で貂が昌平君の軍師学校に入ったことを耳にしている。なんでも、彼女をそこへ送ったのはあの刺客の1人、羌瘣なんだとか。

王騎将軍の元での修行はとても過酷だったが、とても勉強にはなった。最初の1週間だけ王騎軍の演習に加わり、残りの日数を殆ど盗賊討伐という初めての単独任務に費やすこととなった。信もこんな感じで無茶苦茶な任を任されているに違いない、とぼやいていた日々が懐かしい。

「でさ、酷いんだよ王騎将軍ってば……50人程の少数盗賊だからって聞いてたのに…めっちゃ数いて……500人だよ!?500人!」
「お前なんてまだマシだぜ、俺なんか戦も知らねぇ女子供老人ばっかの集落でよー…」

以前よりも逞しくなった二人が再会を果たしたのは、それぞれが任務を遂行した頃。お互いに背も同じぐらいに伸び、身体つきも少し逞しくなっていた。今回秦国で動きがあったようで、間もなく戦が始まるとの話を聞きつけ、王騎将軍と共に咸陽へ向かっている。

「いいじゃねぇか、昌文君のおっさんの所の部隊100人と組んでやったんだろ?」
「それはそうだけどさぁ…」

ちなみに、彼らは名前が幼い頃から知る仲間たちで、ともに修行をこなしていたので意思疎通に苦労することは無かった。いつもよりも、かなり過激な修行…ではあったが、誰一人として脱落していないので優秀と言えるだろう。むしろ、全員殿の御子を死守せねば…という使命感に駆られ、普段以上の実力を発揮していた。それに比べれば、素人を戦える集団に変えた信の方が、功績としては高いだろう。

「逃げたり彼方此方に潜んでいたりでこの3ヵ月…全然熟睡できなかった…」

盗賊と言えども、割と有名な盗賊団だった。略奪だけではなく、裏で違法な商売を行っていたりと厄介な相手だったと思う。おまけに盗賊団を壊滅出来たのは良かったが、その後の後処理がもう大変だった。1週間殆ど寝ずに行い、何とか約束の期日に間に合わせた…という訳で、名前は絶賛寝不足中で頭がぼーっとしている。こんな状態で戦に行ける筈なんてないのに、王騎将軍はふらふらする名前の背中をバシリと叩き、馬車に乗せた。もうめっちゃ痛かった。背中の骨が折れるかと思う程に。

「でもよかったじゃねぇか、そのうちの何人かはこっちに降ってきたんだろ?」
「……良かった、っていうのそれ?まぁすごい手練れたちではあるけどさ…」

信の言うように、壊滅させた盗賊団の中に名前の元へ降ってきた者達が50人程いる。事の発端は、名前がそんなことでお金を稼いでも効率は悪い、と捕縛した盗賊団を叱咤した所から始まる。その方法を具体的に伝えた所、そんな事思いつきもしなかったと感心され、名前についていくことを決心したようだ。現在、それを実施すべく降りてきた元盗賊団の内、3分の1は既にある場所へ送っている。残りの3分の2はひとまず屋敷に行くよう指示しているので、屋敷は今頃混沌としているだろうな…とぼんやりと考えながら、砂埃舞う大地を見つめるた。

「そいつら居ないけど、どこにいんだよ」
「あぁ、梁爺さんの屋敷にいるよ」
「梁爺さん?」
「昔から世話になってる薬師でさ、父上と仲がいいんだ、丁度人手が足りないって喚いてたから、活きのいい奴を送ったって訳」
「その爺さん大丈夫か?活きの良い奴らって、元盗賊だろ?」

梁爺さんのことを知らないからそんなこと言えるんだ…と名前は遠い目をする。ああ、あの人の手伝いに行かされたとき、何度も死を覚悟したものだ。頼まれる薬草の全てが山の絶壁にしか生息していないもので、それを指定の量を採るまでは帰ってくるな…と無茶振りを何度もされた日々…。おまけに、ずるをして帰ってきたとき、それはもう厳しいお仕置きを与えられた…あれってつまり拷問だったのでは…と今では思うが、そんな梁爺さんを父昌文君は心から信じている。梁爺さんが元・秦の武将だったという事を聞いたときには、道理で強い訳だ、とものすごく納得してしまったものだ。

「梁爺さんは元・秦国の武将だからね…大丈夫だよ…あの人、ものすごく頑丈なんだよね…」
「そっか!なら大丈夫だな、カカカカ!」
「うん…むしろ…半分ぐらい脱落者出るんじゃないかな……」
「―――そんなにキツイ爺さんなのか?」
「キツイも何も…ううん、あの時の事はなるべく思い出したくないな…」

上手くいけば、梁爺さんの仕事もできる部下が誕生するだろう。戦場で、負傷した仲間たちの治療にあたれる者たちがいる事はとても重要なこと。今、治療にあたれる部下がそこまでいない事を危惧した名前は、いい機会だ、と思い盗賊たちを受け入れた。名前の仲間に入った盗賊たちの中で、二人、元盗賊長がいるのだが、元盗賊団の兵たちを指揮するのは実質彼らになるのだろう。しかし、その二人が厄介で、名前の元に降ってすぐ、彼女が女であることを言いあてた。それからというもの、姉御、姉御と嫌な呼び方で呼ばれるようになり、周りに人がいるときは絶対にその呼び方をしないように、と厳重に注意した。

「二人、すごい手練れが仲間になったっていうじゃねぇか、どんな奴らなんだ?」
「あーうん、なんていうか、癖がすごい人たちだよ…」

一人は高身長で、ひげを生やした筋肉質な男…彼の名は狼(ロウ)、彼は間違いなく女たらしだ。そして元士族であり女性のような見た目をしている男が来黄(ライオウ)…彼…というより彼女と言った方が正しいのかもしれない、彼女は、ともかく女に興味が一切ない。はじめは男と聞いて耳を疑ったものだが、怒ると男声になるので肉体的には男性なのだろう。しかし、悲しい事に彼女のほうが女性的というか…なんというか…。
新しい仲間たちの特徴を伝え終わると、信の引き攣った顔が目に入った。

「どうして降りてきたのかはわからないけど……まぁ、心強い味方が出来た…のかな」

勘ではあるが、彼らが裏切るなんてことはなさそうだ。むしろ、絶好調だった盗賊団を辞めてまでも秦国の兵士になったのだから、それなりの覚悟があるに決まっている。彼らの腕があれば、再び巨大な盗賊団を築けたとは思うが、そうしなかったのには、名前に何かを見出したから…なのだが、それを知らない名前は、疲れ切った表情で再び地平線に視線を戻した。

Published in天穹の果てに