<黒い影>
嫌な気配を感じ、夜中目が覚める。あの男が近くにいる感覚によく似ていて、久しぶりに嫌な汗をかいた。ベッドの向こう側を眺めると、ソファで眠るアーデンの姿が目に入る。ダブルベッドの部屋だったのでソファもそれなりに大きいとは言え、長身のアーデンにとっては些か窮屈そうだ。
「……何、この音」
耳鳴りのような音が聞こえる。妙な不快感に、名前は自身の肩をさすった。とりあえず、汗をかいたので顔でも洗おう…と洗面所へ向かう。と、一瞬鏡に映った黒い何かに思わず悲鳴を上げてしまった。
「―――大丈夫か!?」
「ああ、アーデン…ごめんね眠っていたのに…」
「悲鳴なんか上げてどうした…!」
あまりの恐怖に腰を抜かし、床に膝をつく名前の肩にアーデンはそっと触れる。
「黒い影が…いたの…鏡に…」
「黒い影…?」
「でも、見間違いだと思うわ…ごめんね」
「気にしないでくれ…君が起こしてくれて、むしろ助かったよ」
「―――どういう事?」
「ここを発つ…病人の手当てをしたいところだが、今は一刻も争う。」
アーデンの真剣なまなざしに、名前は頷く。よくわからないが、彼がそういうのだから、ここを今すぐにでも発たなければならないのだろう。急いで荷物をまとめながら、窓の外を頻りに警戒するアーデンにちらりと視線を向ける。彼は一体、何に対して警戒をしているのか。もしかして、先ほど感じたあの妙な気配だろうか。名前も彼と同様、窓の外を眺める。
「支度は出来た?」
「ええ、ばっちり…でも、一体どうしたの」
「……話は後で、と言っても、もしかしたらその理由がわかっているかもしれないけれども」
もしかして、戦闘になるのかな。名前は無言で短剣を指さすと、アーデンは静かに頷く。ああ、やっぱりそんな感じなんだ。ぎゅっと短剣の柄を握り、息を整える。
「…まさか、アーデンを追っている人たち?」
「十中八九そうだろうね…それに、奴ら、君の気配にも気が付いている」
やはり、カーニバルで尾行されていたんだ。そう呟くアーデンに、名前は申し訳なさそうに顔を俯かせる。あの時カーニバルなんかに行かなければ、夜襲われる事も無かっただろう。病に苦しむ人を助けるためにこの街へ来たというのに、これでは本末転倒ではないか。そんな名前を察してか、アーデンはアンバーの瞳を細め、名前を安心させるかのように優しく微笑んだ。
「名前のせいじゃない、これは俺のせいだから」
「…そんな」
「気を付けて、奴らは魔法障壁を張る…それを破るには、武器に魔力を込め、切り込むしかない」
敵に聞かれないよう、小さな声で名前の耳元で囁くアーデンに少しくすぐったさを感じつつも真剣にそれを聞き入れる。魔力のコントロールがいまだに苦手な名前ではあるが、手短にアーデンのレクチャーを受け、言われた通り心を落ち着かせ、握っている短剣に視線を向けた。
「―――さあ、準備はいい」
「ええ」
宿の中での戦いだけは避けなければ。2人は宿の裏口から抜け出し、街の外へと駈ける。と、その時、赤い炎が襲い掛かってきた。
「―――しつこいッ」
見た事のない魔法で火を打ち消すアーデンに名前は目を丸くさせる。炎、氷、雷の3属性しか魔法は出来ないものだとばかり考えていたからだ。
「今のって」
「いい名前、俺から離れないように」
「―――うん」
魔法での攻撃を受けていた。魔法を使える人との戦いは生まれて初めてだったので、名前は完全にアーデンに守ってもらっている状態だ。どのタイミングで攻撃を入れても魔法障壁ではじかれ、中々魔力を込めた短剣で切り込むことができない。
と、その時。赤い閃光が走り、名前の腕に激痛が走る。
「ッ名前」
「大丈夫…!ちょっとかすっただけ…!」
かなり痛いが、苦しんでいる暇はない。魔力を込めたポーションを飲み、痛みを一時的に中和させ、名前は再び短剣を握る。倒す事よりも逃げる事を考えろとアーデンに言われているが、正直逃げ切る事が出来るのかすらわからない程に彼らは強かった。同じ血を引くルシスの者同士が戦うなんて。
「―――ッ」
このままでは、彼が危ない。と、咄嗟に彼の前に立ち、名前は短剣を構える。すると、ドクン、と身体の中の何かが脈打ち、突如世界が霞み始めた。まるで時間が止まっているようで…。そして、誰かの声が聞こえてくる。その声は怒りや殺意が満ちており名前の頭の中に響き渡った。
『その男を庇う場合、お前は容赦なく殺されるだろう』
「―――誰ッ」
周りを見るなり、時間の止まった世界がそこには広がっていた。薄暗い世界の中、名前は地面からすぅ、と何かが現れた事に気が付く。
「貴方は誰ッ」
『我は人を導く者……』
汝に問う、汝は何者か。名前の目の前に現れた黒い影は不気味な笑みをにたりと浮かべ、名前に問う。
「私は名前よ…!」
『では名前、汝は何故、その男を助けようとしている』
「―――いい人よ、困っている人を助けるために旅に出ているのだから!」
むしろ、何故あなたたちは彼の命を狙うのか。名前は黒い影をぎろりとにらみつける。すると、影はケタケタと笑い声をあげ、隣にいるアーデンにずいと近寄る。名前は彼を守るべく短剣を黒い影に向けるが、黒い影はただ笑うだけ。
『……何らかの力でこの世界に現れた不確かな存在は―――星によって本来の場所に戻されるだろう』
黒い影は、一体何を知っているのか。名前の瞳に写る月を見つめ、黒い影は再び笑った。