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星のこども/51

<神の代行者>

海の向こう側へ行けはしないだろうか。海の向こう側に行けたら、と思うがこの時代に海を渡り別の大陸へたどり着く術は無い。
人々を救いたいというアーデンの願いも、よくわかる。しかし、これ以上治療を続けていたら、アーデンの身体が壊れてしまうのではないだろうか。名前は彼の治療を待つ人々の列を眺めながら、悲しみのため息を漏らす。
せめて、彼の体調が少し良くなるまでの間、ルシスの人たちの手の届かない大陸で暮らせたら。

「今日も晴天―――だけど、あの人たちが襲ってくる気配は無さそうね…」

彼らに追われる生活にも随分と慣れてしまったものだ、と名前は感じる。昔からこれが当たり前だったかのようにも感じられる程、彼との生活が名前の中で、まるで息を吸うようにごく当たり前の事となっていた。

「少し散歩でもしようか」
「―――休まなくて大丈夫?」
「あぁ、今日は平気みたいだ」

患者の治療が終わった頃には日も傾き、辺り一面は紅に染まっていた。一日があっという間に流れ、気が付いたら長らく彼と旅をしているような。名前は隣を歩くアーデンを見上げた。

「ん?何?」
「あ、うん、磯の香りがするなーって…」
「ああ、名前は海を見た事があるんだね」
「え、うん…」
「俺の生まれた場所は内陸だったから海には憧れてたんだ」

海には、悲しい思い出しかないので、海の事を嬉しそうに語るアーデンを少し複雑な表情で見上げるが、まるで少年のようにキラキラと瞳を輝かせ、海について語る彼の横顔を見ていると、嫌な気持ちも引っ込んでいくような気がした。

「母さんにも、この景色、見せてあげたかった」

立ち止まる彼がぽつりとつぶやく。そして、アーデンが見つめている方向に視線を向けると、そこには紅に照らされた幻想的な浜辺が広がっていた。どうしてこの景色がこんなにも懐かしく感じるのだろうか。ここに来たのは初めてなのに、どうしてこうも、懐かしく、そして切なさを感じてしまうのだろうか。

「アーデンのお母さんは、ご病気?」
「…母さんは、殺された」
「…殺された…?」
「…お前が現れた屋敷、あっただろう」

ふと、ここにやってきた日の事を思い出した。確かに彼は、あの日そんなことを言っていたような。あの時は彼と旅をすることも、そして想いを寄せる事になろうとは思ってもいなかった。

「俺が15の時に、母さんは殺された」

父に。と積年の恨みが込められた呟きに、名前はびくりと肩を揺らす。

「母さんは、何も悪い事をしていなかったというのに」
「…そんな」
「母さんを殺せ、あの、石にそう言われたらしい…」

所詮は、ただの石の癖に。あの石に縋る、一族の人間たちが、母を奪った父が、そして何よりあの石が許せなかった。次々と零れ落ちてくるかのように続けられる恨みの言葉を、名前は静かに隣で聞いていた。

「この憎しみの感情を、消したくない」
「…アーデン」
「たとえ、俺が世界から消えたとしても、この感情だけは消させはしない」

だから、日記を書いているんだ。と、アーデンはジャケットの胸ポケットから1冊の本を取り出し、名前に手渡す。

「お前は何が何でも生き延びろ、そして、この日記を守ってほしい」
「…そんな、勝手だよ」

続けようとした言葉は、彼の口づけと共に消えていく。荒々しい口づけに、息をする間も与えてくれず、ツツとどちらのかもわからない雫がこぼれた。
その夜、名前はいつものように悪夢に魘される。しかし、いつもの悪夢とは違い内容を鮮明に思い出せる程、生々しいものだった。脈打つ胸をぎゅうと抑え、テントを見渡すがアーデンの姿は無く。よろけながらもテントを出てあたりを探しに出かけたが、彼の姿も、気配も感じなかった。空を見上げれば、不気味なほどに晴れ渡った青が広がっており、独特のピリピリと肌を刺すような嫌な何かを感じる。

夢の内容を思い出し、バクバクと心臓が痛い程脈打つ。夢の中で、名前は鎧を纏った兵士に身体を押さえつけられ、その光景を見せられていた。
重たい金属を引きずる音が、渓谷に響き渡る。まるですべてを飲み込まんとするその深い谷に、今、彼が落とされようとしている。

『―――』
『…殺さないで!お願いします!』

遠く離れていく彼の口が、あの言葉を紡ぐ。助けてあげたいのに、助けることもできない己の無力さに崩れ落ちる名前。悔しさで岩肌に爪を立てるが、岩肌に傷が付く筈もなく。

『―――     』
『…嫌だァッ!!』

次の瞬間、彼の首が飛び、そして彼の胴が虚しく谷底に吸い込まれていった。声すら出せず、岩肌に爪を立て、自身の爪が剥がれ流血しようとも名前はそれをやめようとはしなかった。ああせめてこのままこの谷に落としてくれればいいのに。そうすれば彼と一緒になれるというのに。しかし、この身体は押さえつけられており身動きすら取れない。どうしてこんなことに。ああ、あの時逃げていれば、あの時―――。ふと、崖の上を見上げるとそこにはルシス家の旗をたなびかせ、冷たい瞳で此方を見下ろす男の姿が目に入った。そして、その男の隣には黒い靄のようなものがあって、その靄は二ィと不気味な笑みを浮かべている―――。そこで、名前の夢は終わった。

「…これって、血じゃ…それに…これって…」

標から少し離れた場所にある廃墟には大量の血痕が残されており、そこには彼が愛用していたスカーフが落ちていた。血だまりに沈むそのスカーフを拾い上げ、名前は気配を感じた方向に振り返り、その男を睨みつける。

「久しいな…一族の面汚し、いや、化け物と呼ぶべきか」

そこには、あの男が剣を構え立っていた。

「―――あなたは、シリウス・ルシス・チェラムね…アーデンをどこへやった!?」
「大人しくついて来れば、あの男に会わせてやる…まぁ、生きているかどうかは保障できないがな」
「この―――ッ」

魔法をぶつけるが、男が剣を振うと名前の放った魔法が剣に吸収され、そして次の瞬間、それは巨大な力となり名前に降りかかる。全身を凍てつくような痛みに苦しみ悶えるが、誰かが助けに来るはずもなく。この時代で、味方はアーデンだけ。信じれるのも、彼だけ。名前は悔しさで顔を歪める。その光景をクツクツと男は冷徹な瞳で見下ろしていた。

「うぐッ…」
「しぶといな…」

回復薬を使い、早急に回復を済ませると名前は体制を立て直すべく廃墟から移動する。しかし、それを見逃す男ではない。シリウスは雷の魔法サンダガで巨大な雷の雨を振り落とす。降り注ぐ雷は、轟音と共に大地を抉り、山肌を削っていく。遠くから人々の悲鳴が聞こえ、名前ははっとする。

「―――罪もない人たちになんてことを…!」
「あそこにいた奴らが悪い…すべては、神の代行者であるルシス家が行っているのだから奴らが俺の行いに文句を言う筋合いはない」

むしろ、喜んで命を捧げるべきだ。残虐な笑みを浮かべるその男に、名前は強い殺意を感じた。この男を、殺さなくては。この男は間違いなく、アーデンを殺すつもりだ、と。
何が神の代行者だ。
名前は大地を蹴り、炎の魔法を唱える。この男と焼き尽くせ、彼を守る為に。誰かをここまで殺してやりたいと感じたことは、今まであっただろうか。

Published in星のこども