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星のこども/52

<イフリート>

一瞬にして世界が反転し、気が付けば名前は赤い結晶に包まれた空間にぽつんと浮かんでいた。そして、いつもの黒い靄が語り掛けてくる。語り掛けてくる、というよりは脅迫に近いだろう。威圧的なその声に、臆することなく名前は静かに息を吸い込み、そして淡々と答える。

『何をモタモタしている』
『―――またあなたなのね…いや、どっちのひとかしら』

度々夢の中などに現れるこの黒い靄の存在。名前はゆっくりと瞼を開き、青い瞳でそれを見上げる。

『我を呼べ―――』
『あなた、誰なのよ…』

と、次の瞬間、名前の身体を赤い炎が包み込んだ。ああ、この炎は、知っている、何度も感じた事がある。目を見開き、名前は彼の名を呟く。

『イフリート…』
『我は、常にお前といた』
『そうだったんだ』

それは、知らなかった。なら、何故姿を見せてくれなかったの。名前はふふふ、と笑う。

『何故笑う』
『……もしかしたら、彼を助けられるかもしれない、って思ったからよ』
『あの男を守りたいか』
『えぇ…お願い……貴方ならわかるでしょう、私がこの時代に来てしまった理由―――多分、彼と出会う為、なんだわ』

彼が何者であれ、彼と出会うためにこの時代へやってきたのだろう。最初に彼と出会ったのがその証拠に―――。あの日から、彼と共に過ごすようになり、気が付けばこんな場所まで来ていた。星が何を望んでいるのかはわからないが、星にとってこれは必要な事だったのだろう。だから、この時代に飛ばされ―――彼と出会った。彼と何かを成し遂げるためか、或は彼を救う為か。

『…真意は語れぬ』
『肯定と受け取っておくわ…だからお願い、彼を守って』
『お前の身は守れぬぞ』
『大丈夫よ…私、この時代の人じゃないし…そもそも、人じゃないから―――』

星の意思によって、存在しているのだから。生まれた時から、自由なんてものはなかった。今まで自由だと感じていたあの日々は、星によって与えられていた機会に過ぎないのだと。残酷な現実が、津波のように押し寄せてくる。
ただ、これだけは、せめてこの願いだけは。名前はゆっくりと、まるで空気に一言一言音が振動するのを確認するかのように、イフリートに願いを伝えた。

『あの人を助けてくれたら、それでだけでいい』
『あの男を救えると思うか』
『えぇ、貴方なら―――』

少なくとも、神に背き、神を憎む貴方であれば。そして何より、自身の運命を呪っている者同士、分かり合えると思ったから。名前は淡々と言葉を続け、すべてを諦めたかのようにふふ、と再び小さく笑うだけ。そんな名前の様子に、イフリートは静かに言葉を待ち、そして珍しく驚きの色を見せた。

『…初めに会った頃とは変わったな』
『それは、嫌でも変わるものよ…自我を持つ生き物は、みんなそうなのよ、きっとね』

例え、神であったとしても生きていることには変わりない。六神とて、この星を柱として生きるすべての生き物の中の、少し特別な生を与えられた存在に過ぎない。星の子供も然り―――。

『ねえイフリート、神様は何を望んでいるの』
『…真意は語れぬ、が、神は我らにそれぞれ、異なる運命を、使命を与えている……神に反目する我とて、所詮神の敷いた道……皮肉なことにな』

貴様がどう足掻こうとも、神の敷いた道から逸れる事は許されない。低く、唸るように言葉を吐き捨てるイフリートに名前は苦笑する。

『たとえ、どの道を選んでも神様の思うような未来にたどり着いてしまうだとしても……それでも、せめて、過程だけでも、思うように、好きなように選択をしたい』

だからこそ、彼を助けたい。彼は間違いなく殺される運命にある…。その運命を、少しでも変えられたら、運命を変えられなかったとしても、せめて、彼だけには安らかな時を過ごしてほしかった。名前は最後に、消えていくイフリートに向かってまるでそよ風で揺れる葉の微かな音のような、とても小さな声で呟く。

『イフリート、最後に教えて……あの人は、もしかして、あの人なの?』
『……―――』

イフリートが何かを呟いたような気がしたが、その呟きは吹き荒れる風の中に消えて行った。

ゴン、ゴンと金属が叩きつけられる音で名前は重たい瞼を開く。冷たい檻の中で身動き一つとれないここで、長い、長い夜を過ごしていた。
あれから記憶が曖昧なので、恐らく戦いの最中意識を失ったのだろう。その証拠に、身体のあちこちには夥しい生傷、そして出血が酷かったのか貧血時特有の立眩みと耳鳴りに、凍てつくような寒さを感じていた。寒さに関しては、もしかしたらここが地下なのが影響をしているのかもしれないが、とても衛生的とは言えないこの場所で、もう何日と時間が過ぎ去っているのか。寒さによるものからか、手足の感覚もあまり無く、同時に時間の感覚も忘れつつある。今が何月何日で、あの日からどれぐらいの日数が過ぎたのか。
しかし、皮肉なことに、自分が何者であるのかははっきりとわかっている。

「間もなくあいつと会えるぞ、喜ぶがいい」
「……」

喉が潰されているのか、声も出ない。痛みすらよくわからなくなっており、何となくあの後自身が拷問を受けたのだろう、とケタケタと不愉快な笑い声をあげる看守の声を聞きながら、どこか他人事のように考えていた。
イフリートは、彼の元にいるだろうか。彼の力になってくれただろうか。それだけが気がかりだ。例えルシス家の人間が大勢相手だとしても、六神の力の一つを持っていれば、或は―――と考えてはいるが、過去の時代でそれがどうなるのか、答えは誰にも分らない。
分かっていることは、彼の命が危ない事。
自分の命は、どうでもいい、過去の時代で死ぬ、なんてことはないだろうし、死にたくても死ねないような気がしていたからだ。名前は重たい鉄の鎖がジャラ、と音を立てる度、耳鳴りが頭の中で鳴り響き、不愉快そうに顔を歪ませる。
ここで出来る事は、彼が無事であることを祈ることだけ。彼にはイフリートがついている、そう信じて。

Published in星のこども