<冷たい檻の中で>
この時、名前は知らなかったが、アーデンも彼女と同じく冷たく、不衛生な檻の中に閉じ込められていた。あまりの寒さに息は白く凍り、心までをも凍り付かせる程の寒さにアーデンは1人その身を小さく折りたたみ、震わせていた。彼もまた、彼女の無事を祈る事しかできず、絶望的な鉄の迷路のを濁った視界で眺める。
魔法攻撃を何重にも受け、身体の調子もおかしく、心臓が動いている事が奇跡だと感じる程に、アーデンの感覚は麻痺し、肉体は酷く疲弊していた。
自分がこの世を去る事になろうとも、せめて、この想いだけはこの世界に残しておきたかった為にアーデンは日記を毎日欠かさず書き綴っていた。そして、今、その日記は彼女が所持している。特別な魔法をかけられたその日記に触れることができるのは、彼の許したものだけ。
繋がれた鎖が檻にぶつかり、ガン、ガンと無慈悲にこだまするその音だけがこの鉄の迷路を満たし、混濁した意識の中、アーデンにとってその音だけが生きている証明だった。
あの日、名前が突如姿を消した。近くの廃墟に広がっていたあの血だまりは、間違いなく彼女のものだろう。そして、彼女が最近寝つきが悪く、真夜中に目を覚ますことも知っていた。それを知っていて、何にもできなかった己の不甲斐なさにアーデンは呆れて言葉も出ない。出来る事ならば、彼女と出会う前に時を戻してほしい。そうすれば、彼女が犠牲になる事もなかった。自分のせいで巻き込んでしまった、同じ血を引く、同じ悩みを持つ、かけがえのない存在。
ここに連行され、もう何週間が過ぎただろうか。食事は最低限度のものが与えられ、じわじわとまるで細菌に犯されるかのように死を感じさせられるこの空間で、永久とも感じれる時間を過ごし、もはや感覚という感覚は失われ、身体のあちこちには彼らに付けられた傷が存在感を放ち、自身の敗北を嫌という程思い知らされる。
彼を今生かしているのは、彼女がまだ生きている、という事実だけ。ここへ連行された時、彼らは確かに言っていた。あの赤毛の女はなんとか生かされている、と。自分と同じように最低限度の食事を与えられ、じわじわと死を感じているに違いない。それが、自分のせいだと分かっているが為に、アーデンはこれまでにない苦しみを感じていた。
長い苦しみの中、アーデンは彼女の命乞いの事だけを考えて過ごした。そして、遂に外の時は訪れた。少し白髪交じりの黒い髪を揺らし、この鉄の迷路には不釣り合いの装いをした初老の男がコツ、コツと杖で鉄を踏みつけながら現れた。彼こそが、アーデンの父であり、アーデンの命を狙っていた張本人だ。彼は、昔から一切の愛情を彼に向けた事が無かった。むしろ、生まれた事を忌み嫌っていた程に、いつ彼を始末しようかとさえ考えていた程だ。その為、幼い彼を戦地に送り、あえて最前線へ追いやった。しかし、憎いことにルシスの血を色濃く引いているのか魔法の扱いも、剣術も兄弟たちの中で秀でており、彼を最前線へ送ったことにより結果、彼が強くなってしまったことを後悔したものだ。
冷たい青で見下ろす父は、彼に冷たく言い放つ。
「時間だ」
「―――」
もう、お前に与えた猶予は残っていない。と、左ポケットから砂時計を取り出し、それを見せつけるかのように彼の前で揺らして見せる。
喉を潰され、声が出ない。彼女の命乞いをしたくとも、これでは…。と、アーデンは突然自身の人差し指の皮膚を噛みちぎり、下たる血で文字を綴った。もはや痛みなど感じない。それよりも、首謀者であるこの男と2人で対面できるこのチャンスを逃すわけにはいかなかった。
「―――ほう、それほどまでに、あの娘は大切か」
「……」
血で綴られた言葉を見下ろしながら、男は冷たく言い放つ。
「お前がどう足掻こうとも、未来は変わらぬ…お前の身は穢れ、そしてお前と共にいたあの女の身もとうに穢れておるだろう……」
それが、この星の意思だ。残忍な笑みを浮かべ、去っていくその男の背中をただじっと、見ていることしかできなかった。こんな家に生まれなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。今更ながらに、自身の運命を呪った。
それからしばらくして、アーデンの元に別の訪問者が現れた。白い服に身を包んた少女は、まるで地獄に舞い降りた天使のような美しさがあり、看守は彼女が現れるなり無意識のうちに小さく感嘆の言葉を漏らした。
「アーデン、可哀相に」
思ってもいないであろう言葉を放たれ、アーデンは不愉快そうに顔を歪める。
「あなた、お母様の事を忘れられないのね」
檻の中に差し入れられた手のひらで頬に触れられ、嫌悪感を滲ませた表情を浮かべるが、彼にはそれを振り払う力すら残っていない。心音は弱くなりつつあり、着実に死が訪れようとしていることぐらい、嫌なほどに理解していた。
「あの子、よく似ていたわ…」
あなたのお母様に。目を細めて笑う彼女に、アーデンは一瞬心臓が強く脈打つのを感じた。
「だからあの子を助けたいの?」
「―――」
「…いいえ、違うわ、あなたはあの子に、想いを寄せている、あなたのお母様の面影を持つあの子に…今度は、あの子を救いたいと考えている、違うかしら」
未来を詠む巫女、彼女の口から放たれる言葉は、すべて真実だった。だからこそ、アーデンは悔しそうに唇を噛む。この女に心など読まれてたまるものか、と。しかし、暴かれる真実の数々に、アーデンはどうすることもできず。鉄の迷路に、美しく、そして歌うように紡がれる彼女の声が響き渡る。
「あなたとあの子は結ばれない…貴方たちがどう足掻こうとも変わらない未来」
運命のレールから外れる事は許されず、与えられた宿命を全うするまで神は解放しないだろう、あなたたちを。彼女の口から紡がれる言葉には、ゾクリと背筋を這うような恐ろしさがあった。
「あなたは、あの子を望み、あの子はあなたを望み―――しかし、煮詰められた運命の窯の中で、あなたとあの子が混ざり合う事はない…」
ガン、と鎖を檻にぶつけて否定をするものの、広がるのは虚しさを孕んだ無機質な音だけ。
「……でも、安心して…あの子は無事よ、これからもずっと」
あの子は、星のこどもだから。そう言葉にはしなかったが、未来を詠むスピカはとうの前から彼女の存在を把握していた。そして、何故彼女がここに現れたのかも。これは、スピカなりの優しさだったが、憎しみの眼差しで此方を睨みつけてくる彼がそれに気が付く筈もなく。勿論、それを承知でスピカはここへやってきたわけなのだが。
「…早く使命を全うできたら、どれだけ楽なことやら…」
それは、自分自身の事でもあり、彼女の事でもあり、そしてアーデンの事でもあった。
「どうか安らかに―――アーデン・イズニア」
あえて、彼の母親の旧姓であるイズニアの姓で呼んだのは、彼の運命を愁いているスピカだからこそだったが、彼にとっては嫌味でしか感じ取る事が出来なかった。そしてのちに、彼はイズニアの姓を名乗り、この星の宿命の針を大きく動かしていくこととなる。