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星のこども/56

<一人ぼっち>

知らないほうが、幸せだということもある。
全てを解き明かした暁に訪れるのは、絶望だけだから。それを知る彼女は、彼の傍に寄り添い、涙を流した。喉が渇いて、舌が痺れる。心臓はバクバクと脈打ち、目を閉じてしまえば、もうそこには底なしの闇が広がっていて。
氷が溶けるように、彼はとても安らかな表情でその時を待っていた。彼にとって、長い、長い旅がこれでようやく終わるのだから。
掌が冷たいのは、大地に降り注ぐ雨のせいなのか、彼に死が迫っているせいなのか。名前の青い瞳から、大粒の雫が止めどなく零れ落ちる。

「……アーデン、ごめんね、私、すべてを見てきた…ッ」
「―――はは、そっか…じゃあ、俺の事が、君は、わかるんだね」
「―――うん」

ああ、どうして、時が戻るならあの頃に。どうしてあなたと出会ってしまったのか…すべては、精巧に作られた神のシナリオだったのだ。名前は冷たい彼の頬に触れ、そして、抱きしめた。もう彼女を抱きしめる力も残っていないアーデンは、苦しそうに笑うだけ。すべてを知った彼女を、世界でたった一人の彼女を、この手で抱きしめられたら。アーデンの瞳からは、とうに枯れたと思っていた熱いそれが溢れ、零れ落ち、大地に降り注ぐ雨に混ざり合っていく。
彼女と一つになれたら。彼女と、ともに生きる事ができたら。名前がいなくなってから数百年後、アーデンは孤独な朝を迎えた。愛する者のいない世界、そして、自分を見捨てた世界。見知らぬ人々に、見知らぬ街並み。すべてが憎らしかった。

「やっぱり…神様は憎いね……俺たちは、神に踊らされていた、という訳なんだろう」
「―――うん」
「それでも、俺は君に会えてよかった…たとえ、どういう結末であろうとも」
「アーデン…私…私……あなたを、」

失いたくない。その言葉は雨音にかき消された。
きっと、この先―――誰かを愛するという事は無いだろう。最初で、最後の恋だった。

「ようやく、あなたに会えたのに」
「ようやく、君に会えたのに」

嫌だ!消えないで!幼い子供のように泣きじゃくる名前をそっと抱きしめてやることもできない己の身体が憎い。アーデンは胸元に顔を埋めて、声を枯らしながら嗚咽を漏らす最愛の少女に、世界でたった一人の家族に優しく微笑んだ。例え神の敷いた道だったとしても、アーデンにとって名前は希望だった。深い闇の底で、彼女だけが共に苦しみ、そして愛してくれた。

「幸せな日々だったよ」
「―――わっ、私、ようやく気が付いたのにッ、ああ、どうして今なの…ッ」

アーデンと出会う前の、あの日に戻れたら。

「……名前、君は覚えているか、あの、美しい海を」
「えぇ、勿論覚えてる…ッ」
「あのまま、向こう側の世界へ行けていたら、俺たちは、幸せだったかな」
「…うん、そうだったのかもしれない…あッ…!」

彼の肉体が、燃え尽きた炭のように灰を散らしながら消えていく。灰をかき集めようとしても、手が空を泳ぐだけ。こんなことをしていても、虚しいだけだ。憔悴しきった名前は、空に向かってしゃくりあげる力も無く、隣で横たわるアーデンの胸元に顔を埋める。心臓の音も、何も聞こえない。それは彼が呪われてしまったからなのか…それとも、耳がおかしくなってしまったからか。

「アーデンは…あの海で、私を迎えに来てくれたのね―――」
「…そうだよ、あの場所は、今のガーディナ…実はさ、結構変装してあそこにいたんだよね……ずっと待っていたんだ」

そして、ようやく君に会えた。と、アーデンは儚げに囁く。

「日記…寂しくなったら、いつでもそれを見て、俺を、思い出して」
「―――うん」

彼がいなくなるという現実が、受け入れられずにいる。今だってこうして、彼が消えないようにとしがみついているが、アーデンの肉体は灰となり消えようとしている。

「愛しているわ」
「―――」

名前は、彼に口づける。絡み合う舌と舌と、混ざり合う遺伝子。そして、何度も、何度も繰り返し、そしてお互いの名を呼び続け―――最後に彼は、微笑みながらこの世界から姿を消した。

2人の母親も、ルナフレーナも、アーデンも…そして、優しい瞳で名前の肩を抱くノクトも。星の為に運命を狂わされた人たちだった。すべてが愛おしくて、かけがえのない人たちだった。

「…ノクト、驚いたよね…実は色々あって……私、過去の時代にいたの―――」

そこで、青年時代のアーデンと出会ったのよ。あまり時間は残されていなかったので、名前は手短に過去の時代で起きた話をノクトに伝えた。しかし、すべては語らなかった。この星の歴史を知れば、きっと彼は迷ってしまうだろうから。それに、これ以上彼に辛い思いをしてほしくなかった。名前は真っ直ぐノクトの瞳を見つめる。

「……任せたぞ、名前」

星の未来を、託したぞ。ノクトは立ち上がり、名前の頭をわしゃわしゃと撫で微笑む。託された未来を、守る事が死に逝く彼の願い。ならばそれを彼の代わりに―――とはわかっていても、我慢できなかった。城へ向かおうとするノクトの足に飛びつき、泣き叫ぶ。

「どうして、どうして、皆、みんないなくなっちゃうの!?私を一人ぼっちにしないで…!!」
「…名前」
「どうしてアーデンを助けてあげられなかったんだろうッ、どうしてノクトがこんなにつらい想いをして、覚悟を決めなくちゃいけないのッ」

どうして、どうして!
叫び声は雨音にかき消され、残されたのは息を荒げ、瞳を真っ赤に腫らした少女と自らの命を犠牲にし、世界を救うべく誕生した王だけ。

「お前は、1人じゃない…仲間たちがいる、それに、肉体が消えたとしても俺たちはずっとお前を見守っているから」

これから、途方もない程長い時を過ごすことになる名前の孤独をわかっているかのように、ノクトは震える名前の肩を優しく抱きしめた。そして、彼は最後の一仕事を終える為、その命を散らす為、城へと向かっていった。
1人取り残された名前は、水たまりに映る自身の瞳が赤く、不気味な光を放っていることすらどうでもよくなり、まるで彼のぬくもりを探しているかのように、アーデンの消えた場所に小さく横たわり、涙を零した。

もう、彼は、いないんだ。
彼と出会わなければ、こんなに苦しい想いをしなかっただろう。
彼と出会わなければ、こんなにも深い愛を感じる事はなかっただろう。
胸の内ポケットにあった日記を抱きしめ、静かに瞼を閉じる。このまま闇の中に吸い込まれていけば、彼に会えるだろうか。

Published in星のこども